稲荷橋東詰

字稲荷と字中野の間には、投げ渡しの一本橋がありました。大雨や洪水で度々通行が途絶えましたが、明治20年頃に両刎橋が架けられ、車馬の往来が可能になります。大正8年に吊橋になり、昭和12年に架け替え、そして昭和31年に永久橋となりました。さらに平成元年に再び架け替えが行われ、現在の姿となっています。以前の橋は、今より下流側に架けられていました。

ここ稲荷橋東詰には、かつて中野製糸という製糸工場が存在しました。付知の養蚕は大正期に最盛期を迎えますが、繭から生糸を作る製糸工場は明治10年代頃から現れています。なかでも規模の大きかった中野製糸工場は明治42年に操業を始め、大正期には120人もの女性が働いていました。

参考:付知町史、三千年物語

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